さるみブログ。

自意識の墓場。

「イマ」に忙しくって、春。

つくづく失礼な話だが、かつて某氏に言われた「俺やだよ。30歳とかになってお前だけ結婚してなかったら」という言葉を思い出しては、咄嗟に反論できなかった自分に腹を立てることをここ数年繰り返している。

怒りが少し落ち着いた後は、そいつにどんな言葉を返すべきだったか考える。年月が経つにつれ怒りは少しずつ落ち着いてきてはいるものの、それと反比例する形で妄想する反撃の言葉とシチュエーションは鋭さを増している。

最近のお気に入りは、そいつが旧社会的価値観のまま成長してしまったこと、その価値観は死ぬまでアップデートされないであろうことを憐れみつつ、そもそも私の想像する未来にお前はいないと伝える(もしくはお前の未来に勝手に私を登場させるな)、というものだ。

我ながら惚れ惚れするカウンターだ。

何よりも他人からかわいそうだと思われることが嫌いな私が、憐憫の目で彼をまなざし、悪しき人間関係を断とうとしている様子がうかがえる。面接なら「実に前向きな姿勢で好印象」という評価を得られるに違いないし、当時20そこそこの私が聞けば拍手と賛辞を送ってくれるだろう。

そしてここまで妄想すると、怒りはすっかり治っているのだ。

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安土城から見下ろした岐阜の街。遠くまで見通せて、地の利を活かした場所に建てられたことがよくわかるし、これくらい自分の将来もはっきり見えたらいいのにとか思う。

 

怒りは原動力になるものの、コスパが悪いことに気がついたのはいつだっただろうか。

他人の行動や理不尽に対して怒りを抱き行動したことはこれまで何度もあるが、瞬間風速的に動けるという利点の一方で、かなりのエネルギーを消費するので体力的にも精神的にも疲弊するという欠点もある。多くの人はこういった経験を重ねながら、自分の感情と折り合いをつけたり諦めたりしながら「オトナ」になっていくんだと思う。

 

このことについて考えると、いつも浦沢直樹の『プルートゥ』を思い出す。

ある博士が完全無欠の人型ロボットを作ろうとしたが、全ての感情を均衡に作ったため起動しなかった。開発者はその感情のバランスを少しだけいじった。「怒り」の感情を強くしたのだ。ロボットは起動したが、自身の敵となりうる同類のロボットたちを次々に襲い、破壊神となってしまった、というあらすじだ(意訳もあると思うがあらすじは概ね合っているはず)つまり言いたいことは、ちょっとの怒りでも爆発的なエネルギーになりうるということだ。

そして怒りは伝播する。

 

過去に同じプロジェクトチームになった先輩がいた。その人(以下Aさんとする)は新卒からチームの一員として活躍しており、その完璧主義な仕事ぶりを買われてチームでも重要な役割を任されていた。ある程度の緊張感のなか、与えられた職責を果たすことが労働を対価に給与をもらう社会人のあるべき姿だと思っていた新卒1年目のわたしには、彼女は目指すべき人物に思えた。

しかし配属されてから数週間経つと、何か違和感を感じ始めた。Aさんは常に怒った表情をしていて、チームに対して笑顔を見せることが一切なかった。記憶をどれだけ辿っても、彼女が私に微笑みかけている顔が出てこない。上司後輩関係なく語気に怒りが滲み、ぶっちゃけ話しづらかった。Aさんのまとうモノは緊張感を通り越して殺気だった(ある人が彼女のことを「手負いの獣」と表現していて思わず「なるほど」と言ってしまった)。すっかりAさんの殺気にあてられたわたしは、次第に彼女への怒りをモチベーションに働くようになっていった。怒りの攻撃に応戦するには怒りしかなかったのだが、今振り返るとどう考えても健全な精神状態だったとは言えない。その証拠にわたしは食事制限やジム通いもせずに配属半年で7キロものダイエットに成功した。

Aさんの雰囲気はチームにも伝播していた。当時抱えていた案件は動く金額も大きく、会社からのプレッシャーもあったため本来チームプレーが必須になるはずだが、当事者間の会話は必要最低限。チームは常に殺気だち、上司もお手上げだとぼやくほど空気は最悪だった。「メンバー全員血だらけで瀕死状態だが、その傷はすべて身内によるものだ」とよく同期に話していた。

 

しかし驚くべきことに、Aさんはチーム以外からは「社交的/常に笑顔の人」だと思われていた。同僚から彼女のチームであることを羨ましがられた際には、思わず誰のことを指しているのか聞き返してしまったほどだ。もしかしたら彼女の本来の姿はそっちで、チームに見せていたのは一面に過ぎないのかもしれないが、残念ながらわたしの中では常に怒っている人であり、思い出すと自動的に負の感情が噴出するトリガーとなってしまった。 

 

Aさんとの長い戦いは、彼女の部署異動をもってあっけなく幕を閉じた。

結局彼女は最後までチームに対して笑顔を向けることなく、完璧な引継ぎをして去っていった。今ではすっきりした顔をしてデスクトップに向かう姿を社内で見かけるほどの距離感になった。反面教師という意味ではあのチームでの経験に感謝しつつも、今後もし同様の人が現れた場合はいち早く察知して距離を置くか、どうしても付き合わねばならない際には無駄なエネルギーや時間を使わないよう、最低限のコミュニケーションに留めたいと思う。

 

 

つくづく腹の立つ話ではあるが、件の”30歳で結婚前提”男は、もう一つ素晴らしい話題提供をしてくれた。今年で28歳になったのだが、やはり30歳が近づいてくるにつれ、思うとこがある者たちがそこかしこで不穏な動きをしだす。

実家に帰るたびに祖父母から良いパートナーはいないのか聞かれ、母からは今は共働きの時代だから子どもができれば必ず子育ては手伝うと約束をされ、父からは未来の孫とやりたいことを伝えられる。

歳の高い知人のなかには卵子保存について調べる者、マンションを買う者、マッチングアプリから婚活アプリへの切り替えを奨励する者などが現れ出す。

もちろん適齢期や平均値というものが存在し、平均とはある母集団の大小ある数値を均したものだと理解もできる。 しかしだからと言って何でも「30歳」をこじつける必要はないと思う。

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そもそも30歳になるとなにか変わることがあるのか。その答えが垣間見えた出来事がつい先日あった。

転職活動中の一場面だった。面接官から「35歳までにどうなりたいですか」という質問を受けた。面接では珍しくない質問だし、そういった類のことは当然聞かれるだろうと構えてはいたが、28歳にとっての中長期的な区切りは30歳ではなく35歳になるのかと漠然と思った(その時点でわたし自身も「30歳」という概念にとらえられているのだが)

そういえばInstagramで流れてくる求人広告も、就職してすぐのころは「とりあえず3年が経ちました」「第二新卒」といった文言だったが、最近は「中途採用」「年収800万以上」といったものに変わった。

そしてこの理論でいくと、35歳で面接を受けた場合は40歳までの想定キャリアを質問されるのか?と考えたら、急に数字区切りで考えるのが馬鹿らしくなった。

1ヶ月後すら見通せないいま、確実に自分のものだと言えるのは今日まで生きてきた日数(≒経験値)と、そのなかで築き上げ時には手放してきた人間関係。それだけが自分を構成するすべてだ。この資産をうまく活用するなら、不透明な5年後10年後の将来設計ではなく、いま着実に運用する方法を模索したほうがよっぽど賢いし、来るかも知れない明日を生き抜く自信につながるだろう。それに気がつかなければ、35歳になれば40歳に、40なら45、45なら50にというふうに、手に入るかもわからない老いと着実に存在する死にずっと怯え続けるのだ。

そして、もし彼らに倣って人生を逆算するならば、「いま」に忙しい自分には怯えてる暇はない。

Rへ

昨日は会ってくれてありがとう(お花もありがとう)。楽しい時間でした。

 

最近の私はなんだか人に会うのが億劫で、すっかり出不精になっていました。

ご存知の通り完璧主義者な私は、誰かに会うとなると行く店から何を話すかまで、すべてを準備しなければ気が済まない性質なので、仕事が多忙を極める今日この頃は人と会う準備をするだけで疲れてしまっていたのでした。

気心知れた友人にまでそんなことしなくて良い、といった言葉は君以外からもよく言われていましたが、頑固な私は「此れがワタシの正義」と聞く耳を持ちませんでした。

1年前、いまにも壊れてしまいそうな君を連れ出して美術館に行きましたね。傲慢な私は自分の用意していった話題を披露し、自分の行きたい場所から場所へ君を連れ回しました。疲れ切った人を相手にワタシノ正義を振りかざす、今の自分なら絶対に会いたくない人間でした。

 

「コースとか、時間とか、次会うときは何も決めなくていい」

 

昨日、君から放たれたその言葉に不思議と安堵している自分がいました。その場では「そーね、土日くらいね」なんて適当な言葉を返してしまったけど、帰り道、頭からその言葉が離れませんでした。

私にとって誰かに「会おうよ」と言われることは、「誰かに求められる」ということを意味しており、このたった4文字を「自分なんかと会いたがってくれているですって!?ならば少しでもお返しをしなければ!」に変換するまでがセットになっていました。

要するに、私は自分に自信がなく、この4文字に対して必要以上に気負っていたのです。

 

 

昨日、君は二つの偉業を成し遂げました。一つは私をワタシノ正義から解放してくれたこと。もう一つは、やっとの思いで地獄を抜け出したその姿を私に見せにきてくれたこと。やや伏せがちな目元には、以前にはなかった包容力のような、慈愛のようなものが見えました。

私を解放したあの言葉は、君がいた地獄の一丁目(時には二丁目)から持って帰ってきたものの一つだったのでしょうか。

君がいてくれて本当によかった。おかえり。

 

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追伸.

帰宅後、もらったお花を部屋に飾りました。

今年の抱負は「周りにいてくれる人の言葉に耳を傾ける」なんだけど、傾けるまでもなく、いい言葉は残るものだなーと思った夜でした。花をみるたび、この夜を思い出したいです。

大変おこがましいことではあるのだけど

しょうもないライターをやっていたフリーター時代、ある先輩に「君にはこの会社に採用されていなかった未来があったんだよ」と言われた。

その先輩の紹介で得た職だったこともあり、ことあるごとに「その節はどうもありがとうございました」と言ってきた私にとって唐突に告げられた事実はなかなかびっくりするものだった。

わたしが採用されなかったかもしれない理由、それは大学時代にミスコンをやっていたからだった(らしい)。LGBTQフレンドリーやダイバーシティを謳っている会社の方針とは合わないのでは、と当時の編集長は懸念したそうだ。

https://www.instagram.com/p/64eSmeKmHe/

ダイバーシティのイメージ

 

たしかに、ミスコンはダイバーシティともLGBTQとも無縁の世界だった。

候補者のほとんどが体育会サークル所属の見たことのあるアナウンサー顔の女の子で(水槽の金魚よろしく最初は見分けがつかない)、じゃあ"ミスXX大学"を決めるのは縁故票の多さかと思いきや、青田買いを目論む事務所や雑誌といったスポンサーの一言だったりする。

権力を前に企画側は何もしていなかったかといえば答えはもちろん否で、候補者たちの内面をいかに魅力的に見せるか、個性を引き出すかを考え、一人でも多くのファンができるようSNSを更新し(カメラロールはオフショットで埋まり)、一つでも多くの企業に渉外活動を行い(月の電話代は学生とは思えないほど高額になり)、バイトもそこそこに夏休みの多くを準備に費やした。

しかし、そんな企画側の努力をよそに、候補者たちの将来の夢はアナウンサーから客室乗務員、お嫁さんへとコロコロ変わり、ここぞという撮影の日には全員が白いワンピースで登場する。内面とは。個性とは。
そしてsnsには過去の未成年飲酒の証拠を血なまこで探す輩がいて、本番直前に候補者が一人いなくなったりする(未成年飲酒、ダメ、絶対)

それでもエントリー段階では見分けすらつかなかった候補者たちがどんどん綺麗になるのを近くで見れたのは本当にいい経験だったし、学業そっちのけで企画を考えたりパンフレットを作ったりするのはなかなか楽しかった。こんなことを先輩に言ったら卒倒されるかもしれないが、ぶっちゃけ見た目で判断する世界があってもいいのでは、とすら思っていた。

 

また、辞めた立場から言わせてもらうと、そのダイバーシティとやらを謳う会社の社長がセクハラ発言をしてたびたび編集部員の顔をしかめさせていたのだから笑ってしまう。

https://www.instagram.com/p/NgVTY/

 

ミスコンを通して女の子がみるみるきれいになるのを目の当たりにして「この子の成長過程は自分だけが知っているんだ」という何とも言えない恍惚感に味をしめたわたしはアイドルにハマり始めた。

アイドルの魅力、それはミスコン出場者なんか比にならないくらい、自分磨きに努力を惜しまず、自信を持ってファンの前に現れることだと思う。彼女たちはファン(わたし)が見ている自分こそが自分史上最強の自分だと主張する。自信がある人を見るのは、嫌いじゃない。

 

「こんなにかわいいわたしを見て!」
「ずーっとわたしのファンでいて!」

 

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↑最近の推し 

ヲタ活をするなかでもうひとつ気が付いたことがある。

それは、大変おこがましいことではあるのだけど、ミスコン候補者に対して「かわいいな、でも自分にはできないな」自分ではアピールしない/できないことを自分の魅力としてアピールしているアイドルたちを見るのが好きなんだということ。

女の子らしいことをすること、主張することが苦手だ。それは自分のキャラではないと思うからで、同時にそれ以外のところに自分の魅力があると思っているからとも言える。実際わたしは見た目で勝負するにはなかなか厳しい外見であることを自覚しているし…

「我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」 —四畳半神話大系森見登美彦

森見登美彦の理論に則ると「アイドルじゃないわたしがわたし」なのかもしれない。

桃の食べごろと映画の見ごろについての考察。

「シャラメ、シャラメ」と慣れないカタカナを繰り返しながら雨の新宿を急ぐ。「君の名前で僕を呼んで」を見るために。

 

核となる種を床に投げ捨て、美味しい果実だけを貪る。または慰める道具にする青年。それを食べようとする年上の男。

メタファーのオンパレードなのはいかにもフランス映画だったが、普遍的なテーマで、まったく時代に媚びない姿勢は素晴らしいし、何よりラストのエリオの泣き顔は本当に美しかった。

けど、17歳と24歳の青年同士のラブストーリーを見るには、25歳の私は中途半端だったように思う。

17歳のエリオとして見るには自分は年取りすぎたし、オリヴァーには感情移入できないし、かといって物語を懐かしいと思うには若すぎた。

桃は熟していた方が好き。好みは分かるが自分の成熟度はわからない。

この映画がしっくりくるのはいつなんだろう。その時わたしは何歳なんだろう。

坂本龍一のBGMを聴きながら、そんなことを考えた。

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✂︎—————————— こっからはネタバレ ✂︎———————————-

都市は雑音が多い

前半、北イタリアの夏の光に包まれた二人の青年は本当に綺麗だ。自然の中に二人きり。吐息がかかるほどの距離感がとにかく甘酸っぱい。

エリオの猫のようないたずらっぽさは、子どものそれとは違う。17歳というあの年頃にしか出せない、侵しがたい色気がある。(やたらギリシャの男性像を出していたのは、像に閉じ込められた永遠の若さを表現していたのでは?)

あの仕草にいじらしさ感じるのは、私たちが日本人だからでは?と言った友人にはただただ同意だった。

 

けど、後半から舞台が都市部に移ると、二人の関係が急に世俗的なものに見えてくる。街の人、建物、車、都市は雑音が多い。その雑音の中に馴染むオリヴァーと、そんな彼を虚ろな目で見つめるエリオだけが神聖なものに見えた。

思い返せば、オリヴァーは関係を持った翌朝に何度も「昨晩のことを後悔してないか」と聞いていた。エリオはその度に「別に」と答えるけど、年上の彼は加害者になりたくないだけなのだと薄々気づいていたのかもしれない。

 

 みんな傷つき、傷つけている

けっきょく最後まで二人が思いを言葉として告げることはなかった。

タイトルの「君の名前で僕を呼んで」はオリヴァーのセリフだが、そこにも彼の逃げたい(責任を負いたくない)という心情がこもっているように思う。互いに自分の名前を呼ぶことで、自分に向けられた思いを代弁し合う、そう見ることもできるかもしれない。たしかに恋に酔ったエリオはオリヴァーに言われた通り、自分の名前をたいそう愛おしそうに繰り返していた。

しかし、自分の名前を呼ばせないことでエリオの中の自分の存在をこれ以上大きくしないように自己暗示させていた、とも考えられないだろうか。あくまで思いは己自身に向かっていて、それを自分が与えることも与えられることもないのだと。

ただ、当のエリオも純粋無垢というわけではない。オリヴァーを忘れるために女友達と関係を持ち、にもかかわらず本命と結ばれると「わたしはあなたの彼女よね?」という問いに肩をすくめる。みんな傷つき、傷つけている

オリヴァーと別れたあと、帰宅したエリオに父親が語りかけるシーンがある。長い長い語りのなかで、彼は息子に「その痛みを忘れるな。消してしまうな」と言う。何度も二人の関係は友情だったと繰り返しながらも、それが特別なものだったということも分かっていた。自分はたしかに存在したその思いを否定するような親ではないと息子に言い聞かせる。初めはそっぽを向いて適当に聞いていたエリオも、最後には目を潤ませながら愛溢れる父を見つめていた。

 

シネマカリテ、20:45。満席。
最後列で思ったのは「ガラガラの真夏のレイトショーで観て朝帰りしたい」だった。

 

意地っ張りは私でした、アーメン。

数年ぶりにマンドリンを弾いた。

社会人になってからはたぶん初。

練習はおろかケースから出すのも久しぶりだったけど弦はサビてないし、ひび割れもなし。音も悪くない。

先週2回目の誕生日を迎えた愛犬が不思議そうに楽器を見てきて、そういえばこの子がきてから弾いてなかったと気づかされる。

なんで楽器から遠ざかってたんだっけ。

 

https://www.instagram.com/p/q6EjZdqmH_/

中高6年間続けたマンドリン。母校は全国大会の常連高だった。

夏休みも冬休みも毎日練習。週末は家で練習して、クリスマスも誕生日も部員と過ごした。

「挨拶しろ」「朝練に来い」と先輩に怒られて、5歳も離れた後輩に弾き方をイチから教えた。

悔しさ、喜び、悲しみ、怒り、切なさ、あらゆる感情を楽器を通して知ったと思う。

誰が見ても"青春"だった日々が最高潮に達したのは、高校最後の全国大会だったと思う。

同期の指揮者が優秀賞をとって大泣きする部員たちの横で、泣けないでいる自分がいた。

「すべてをかけなかった私に泣く資格はない」

その後ろめたさから、大学4年間は片手で足りるほどしか同期には会わなかった。

 

 

「別人になったら会う。マンドリンとは違う世界で全力で生きてみせる」

二十歳になると同時に掲げた決意は、同期はもちろん楽器からも自分を遠ざけ、気づけば高校卒業から7年が経っていた。

26歳になる今年。同期のなかには結婚したり親になったりして、楽器を続けてる人はほとんどいない。

自分が変わったように周りも変わっていた。

 

https://www.instagram.com/p/-qwk62KmFS/

 

どうやら同期がまた一人結婚するらしいと耳にしたころ、母校のOG演奏会の知らせが届いた。

なんとなくいける気がした。

だいぶ遠回りはしたけど、生演奏を聞けるくらいには気持ちの整理はついていた。

 

 

演奏会当日、花屋で出演する同期のために花束を買った。

ひどい出来だから来るなと言われたけど、行く理由の90%は演奏を聞きたいからじゃない。

自分はどのくらいマンドリンと決別できたのか確かめるためだった。

 

会場が暗くなり、ゾロゾロと出演者が舞台に出てくる。

コンミスも指揮者も知らない後輩だったけど、私に「朝練にきなさい」と怒った先輩は変わらずトップ席に座ってるし、

先輩の頭越しに見え隠れする同期はいつものニヤケ顔でそこにいた。

なんとなくホッとしたところで演奏が始まる。

隣で一緒に見ていた先輩の身体がだんだん揺れだして、なんだかこっちもウズウズしだす。

 

 

、、、弾きたい弾きたい弾きたい弾きたい弾きたい!!!

 

そう思ったらもうダメだった。

どこせき止められてたのか、思い出が洪水のようになだれ込んでくる。

演奏会で力みすぎて真っ赤に擦れた左手の人差し指。

みんなで公園で演奏して知らない人から拍手を送られたこと。

ネクタイの裏につけてたお守りのピアス。

どの楽器よりも左隣に座るあの子のトレモロが大好きだったこと。

最後の全国大会後、一人楽器を抱きしめて大泣きしたこと。

 

 

好きなんだ、マンドリンが。

 

頭に浮かんだ言葉に、乾いた笑いがでた。

お世辞にもうまいと言える演奏ではなかったのに、こんなに揺さぶられてる。

何が決別だ。何がマンドリンとは違う世界だ。バカか私は。

演奏会後、挨拶もそこそこに帰宅して一回頭を冷やそうとしたけど無駄だった。

帰り道に同期なんかと電話したせいで余計に弾きたくなった。バカ。

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13歳の自分が「コレがいい」と選んだ真っ白な楽器ケース。

邪魔だったけどいいオブジェになると思ってずっと自室の目の届く場所に置いていた。

チューナーが見当たらなくてちょっと高めのA線を弾く。

プニプニの指先に弦が食い込む感覚が懐かしくって思わず笑みがこぼれた。

一人旅の前にやってよかったことは、一人散歩に慣れていたことかもしれない

「今ここで右に曲がったら、後ろを歩いている人に不審者に思われるかも」
「本当は来た道を戻りたいけど、いきなり方向変えたら変な人に見られるかも」

大学1年、ひとり散歩をはじめたばかりの頃のわたしはそんなことを考えながら街を歩いていた。我ながら痛いというか、哀れと言うか。

「誰もお前のことなんて見てないよ。見てたとしても、誰もお前のことなんて覚えてないよ」と当時の自分に言ってやりたい。

いや、たぶん頭ではわかっていたけど、ぬぐいきれない自意識が云々 

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-ロイヤルパレス、ストックホルム

そもそも一人散歩を始めたのは、東京生まれのくせに浅草にも吉祥寺にも皇居にも行ったことがないとは何事かと思ったからだった。週末やバイト終わり、空コマ。暇さえあれば歩き回った。なんせ人生の夏休み。時間は腐るほどあった。

ちょっとカッコいい建物が見えたからこの駅で降りよう。
日陰が涼しそうだからこの角で曲がろう。
甘いものが食べたくなったからこのカフェに入ってみよう。

文字にしてしまえばなんでもないように見えるけど、短い時間にたくさんの決断をするのは意外と疲れるものだと知った。一人散歩は決断の訓練と言ってもいいかもしれない。

東京を縦横無尽に歩いて、自分の気の赴くままに進む。気がつけば人の目なんて全然気にならなくなって、純粋に街歩きを楽しめるようになっていた。頭の中には電車の路線図とはちがう、自分だけの東京の地図ができあがっていた。

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-ストックホルムにて

で、タイトルに戻る。

人生初の一人旅をしていてふと思ったのだ。その時、私はヨットを眺めながらサンドイッチを食べていた。美術館で思いの外長居をしてしまって、少し遅めのランチ。品のいいマダムが私に目線をやりながら目の前を通り過ぎた時、果たして5年前のわたしは見知らぬ国で人目を気にせずサンドイッチを頬張るなんてことできただろうかと想像してみた。

お土産すべてかけていい、絶対無理だ

マダムに見られる以前に、サンドイッチを食べる以前に、美術館で長居する以前に、一人で海外なんて考えもしなかっただろう。変わったな自分。

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-fuglen oslo

旅の前に、後輩に借りたオードリーの若林の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』という本を読んだ。超簡単に要約すると、自意識過剰なひねくれ者の彼がたまたまできた休みを使ってキューバへ行き、厨二病の部分をスマートに開放しつつ、最後に灰色の街(東京)を振り返るというものだ。葉巻をくわえて写真をとったり、片言の英語で現地の人とやりあったり、楽しい旅行記だった。

一人散歩はできても、相も変わらず忌まわしき自意識にとらわれている人間が、異国へ行ったらどんな行動をとるのか、同じひねくれ者の思考回路をたどってみたかったというのが、読んだ理由のひとつ。お笑いはまったく詳しくないが、彼を結構なひねくれ者だと思っていた私には、「普段斜に構えてる人でも異国となれば変わるもんだな」と意外な姿を見れた気がした(そもそもタダのひねくれ者じゃ芸人にならないか)。

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-ニューハウン、コペンハーゲン

振り返ってみれば、今回の旅はとにかく初ものづくしだった。ひとり旅デビュー、ホステルデビューにひとり酒デビュー!!!約半月間、その日やることはすべて自分が決めた。

一人散歩に慣れていたつたない英語をあやつるのに精一杯だったおかげで、想像していたほど自意識に行動を邪魔されることはなかった。

唯一あいつ(=自意識)と戦ったのはひとり酒デビューの時。コペンはミッケラー(語呂がいい)。友人と一緒なら間違いなく一番最初に足を運んだであろうスポットだが、ひとり酒なんて家でもやったことのなかった私には、そのバーの敷居はキリマンジャロ並みに高く、登り口すら見つからないような気さえした。

どうしても決心がつかず、誰かに相談したくなってLINE電話で日本とつながる。もう3万歩近く歩いてるし、アジア人だし、なんか服装気にくわないし、行ってがっかりするかもしれないし云々… 思いつく限り行かない理由を口にしたけど、結局話をしながら足は確実にミッケラーへと向かっていた。

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高すぎるバーカウンターに精一杯の見栄をもって寄りかかり、カラカラの口で店員におすすめを聞いた。空きっ腹にアルコールが染みる... 

ビールを味わいつつ、「ミッケラーに行くこと」とセットだった「ひとり酒デビューをインスタグラムのストーリーへ投稿する」を実行に移す。自己満と自慢を兼ねて載せる予定だったが、実際はストーリー経由で友達と繋がりたかっただけ。女子1人/アジア人/旅行者etc なんだか猛烈に居心地が悪くなってきて、片道12時間以上かけてきた土地でも、結局わたしはスマホにすがりつくしかなかった。

ひとり酒デビューはわたしの勝利だが、デビュー後の行動は完全に自意識の勝利で終わった。

https://www.instagram.com/p/BZIDyKOFSVk/

-戦い...

家を長くあけると毎回思うことだが、旅はありとあらゆる職業に目を向けさせ、語学学習をがんばろうと決意させ、まあ要するに「帰りたくない。よし移住だ!」と思わせる不思議な力がある。今回の長旅でも、その"不思議な力"が全力で東京復帰を邪魔してくるであろうことは簡単に想像がついた。

少しでもその葛藤が軽く済むよう、帰りの飛行機で聞こうと決めていた歌がある。吉澤嘉代子さんの「東京絶景」だ。彼女くらい優しく東京を歌ってくれないと、外国かぶれには灰色の街はあまりに冷たい。イヤホンから伝ってくる彼女の歌声が全身に沁みていくのを感じた。

 

次回予告
だって土岐麻子はイケイケすぎる。 

https://www.instagram.com/p/BZIEdK9FCe6/

2017.08.29-09.15 北欧旅行 アート編

 

地上233mとインフル

※今年4月末に行ったマカオの話です。

 

マカオに行ってきた。

ド派手な電飾のホテル、夜通しやってるカジノ、高級ブランドがずらりと並ぶショッピングモール、質屋、娼婦。

「『沈黙』のロケ地が見れるのか~」くらいの気分で行ったんだけど、キリスト教っぽさを感じたのは建物だけで、特別信者が多いって印象はまったく受けなかった。

(日曜日の朝にカテドラルに行ってみたけど、ミサの参加者はまばらだった)

逆に印象に残ったのは、2年前に行った香港人にも通ずる商魂のたくましさ。

アジア人のエネルギーみたいなもの。

なんせフェリー乗り場からホテルまでの道が、両脇ド派手なカジノ兼ホテル。

ギラギラした墓標みたいな高層ビル、馬車の像がしゃちほこみたいについてるホテル、テーマパークのスタッフみたいなふざけた格好のボーイ(※ポルトガルの伝統衣装)。

街全部が札束でできてるみたいだった。

 

https://www.instagram.com/p/BTwgC-olVQX/

2017.04.23-25 マカオってこんなとこ🏙⛪️💸

 

一緒に行ったのは中学からの友人。

出発前に、数年前にそいつと行ったパリ旅行のアルバムを見直してみた。

 

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嗚呼、花の都!シティー オブ ライッ!

大学1年の冬、初めてのパリへ5泊7日の旅。

1日目に猛吹雪で凱旋門の真下で滑って転んだこと。

スリに警戒しすぎて、観光客に見られないようお互い10m以上間隔をあけて歩いたこと。

エッフェル搭の下で記念撮影中に割り込んできたヒッピーにブチぎれたこと。

睡眠中の歯ぎしりを指摘されたこと「あの音なに?」

どうしても見たくて行ったモンサンミッシェルでは、片道4時間のバス移動と、座りすぎてお尻が痛くて仕方がなかったこと。

お土産をぜーんぶ羽田空港の関税の申告書を書くテーブルの下に置いてきたこと。

帰国後、facebookにあげた写真は綺麗なものばかりだけど、覚えているのは写真に収めていないことばかりだ。

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今回のマカオ旅行でも、一番印象に残ったことはiPhoneには残ってない。

(一切の手荷物が持ち込み禁止だったから当たり前なんだけど)

簡単に言うと、海風あおられながら地上233mを歩いた。 ※もちろん命綱付きだけど(しかも2本)

マカオの街を見下ろせる最高のロケーションにいながら、私の頭の中はドラマや映画で見た死体のイメージでいっぱいだった。

同時に、思いつく限りの「万が一」を考えた。というか、それ以外考えられなかった。

万が一、ロープが切れたら。

万が一、心臓発作を起こしたら。

万が一、地震が起きてタワーが倒れたら。

万が一、突風が吹いて足元をすくわれたら。

万が一、友人の気が狂って突き飛ばしてきたら。

 

無事地上へ帰ってきてホッとしたなんてもんじゃない。

むしろめちゃくちゃ興奮してた。

べろんべろんに酔っ払った時みたいに声はデカイし、やたらTシャツは湿っぽいし、心臓はバクバクしてる。

こんなに万が一の可能性を考えたのなんて初めてだったし、結論として自分は絶対に死にたくないんだってわかった。

怒ったり落ち込んだりモヤモヤしたり、自分はとことんネガティブなんだと思っていたけど、

それが嫌ですべてを投げ出すって選択肢をとることは絶対にないだろうと漠然と思えた。

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はー楽しかった。

でね、帰国したら2日後にインフルでぶっ倒れた。

地上233mの恐怖なんて吹っ飛ぶほど、39度の熱は辛かった。

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