さるみブログ。

自意識の墓場。

芸術家の皮を持った女、あるいは夢見がちな異邦人

おそらく人生初の、ダリ展へ行ってきた。

なんとなくだけど、ダリはミュシャについで日本人が好きな画家なんじゃないだろうか。

その証拠に、会期最後の土曜日は午後3時の時点で40分待ちだった(そしてその1時間後には70扮待ちになってた)

半年ぶりに会った友人と積もる話をしながら牛歩すること30分(予想より短く済んだ)、ようやく入ることができた。

壁にある挨拶や開催の経緯みたいな説明をすっとばすと、目の前にインスタ映えする件の鼻が。

どうやらショップを出たところにあるらしく、写真を撮るための行列ができていた。

この作品が『メイ・ウェスト』だってことを翌日まで覚えていられる人がどれだけいるだろうか。

鼻を横目に第1章へ。

彼が美術を習い始めた頃の作品は色使いが優しい。

ダリといえば赤と黒といった原色の印象が強いが、それは視覚効果を狙ったものなんだろう。

その色がどんな印象を与えるかということをダリは知っていて、その感覚はこの頃身につけたんじゃないだろうか。

 

初期の作品は割と描写が正確というか丁寧な絵が多かったが、《聖十字架祭のためのポスター》は違った。

描かれた黒人の女性3人は、みんな体がクニャクニャしてて、立体感のないべた塗りだった。

その後、第2章に出てきた《アス・リャネーの浴女たち》に描かれた女性たちを見て、彼は体をデフォルメするのが上手なのではと思った。

印象派の話になるが、彼らの作品を見ていつも思うのは、なぜ絵を見てそこに書かれているものが◯だとわかってしまうだろう、ということだ。

木だったり、人間だったり、花だったりするそれは、もう少しぼかせば空や草原と一緒になってしまい、何だかわからなくなりそうなほどデフォルメされている(◯だとわかるぎりぎりのシルエットを描いている)のだと思う。

ダリの女性は別に輪郭がぼかされていたわけではなく、半円と丸でできていて分解すればただの記号になってしまうような不思議な姿をしていたが、ちゃんと女性だとわかる記号だった。

それと同じ原理を使い、例えば《幻想的風景》の鳥でできた顔や、《消えるイメージのための習作》のような人のシルエットと背景でできた顔を描いたんじゃないだろうか。

また第2章の、ダリがキュビズムシュルレアリスムに出会い、ピカソの真似をした作品(とくに《横たわる女》なんてもろピカソの絵だった)を多く発表していた頃の作品は、彼の模索の時期を見ているようで本当におもしろかった。

が、第3章以降のダリ節全開の作品はもう1つ見ただけで満腹。

ここからって時に、一体自分はどうしてしまったのだろう。

派手な色使いも、グニャグニャの時計も、「これぞダリ」と思っていたのに、なぜ「だまし絵展でも行けば」なんて気分になってしまうんだろう。

「プリントで十分」なんて思ってしまうんだろう。

 

イライラを抱えながら人混みをかき分け、アニメーションを上映する部屋まで来た。

不思議な構造の建物や、ダリそっくりな男の頭だけの山車が出てくる、1950年頃作られたという映像を見て、彼はテーマパークを作りたかったのではないだろうかと思った。

思えばダリ展へ行く前に、スペインのダリ美術館へ行った先輩の話は最高にワクワクするものだった。

美術館を囲う塀の上には卵、淡い赤色の壁にはパン。

館内の至る所に顔に見える仕掛けが設置され、ダリワールド全開。

主張が強すぎて四方八方からダリの視線を感じてしまうくらい。

 

きっと私はあのダリワールドに浸かるつもりで展覧会に足を運んだのだ。

けど、申し訳程度に塗られた展示室の壁の赤と、ショップの壁の上の方に卵を張ったくらいで浸かれるような世界ではなかったのだと思い知らされて、ガッカリしたのかもしれない。

だから「記念にメイ・ウェストの部屋で写真とってインスタにあげて、『君の名は。』で瀧くんがデートで来たとこだよ!とかコメントして、マグリットとかと似てたよね~とか感想言い合って。

なんならだまし絵展にでも行ったら?」

とか思ってしまったのだろう(ってことにしとこう)。

(FYI: ダリミュージアムGoogle マップで館内を散歩できて楽しいぞ)