さるみブログ。

自意識の墓場。若気の至りと思ってください...

3番目の鳥居をくぐって

2017年2月11日(祝・土)、人生初のお伊勢参りをしてきた。

この国をつくられた神様を祀る神社に、ガチ勢でもない自分がわざわざ建国記念日に行く必要ある?って思ってたけど、今は行ってよかったなって言える。

(金曜夜に前乗りして名古屋まで行ったのにけっきょく寝坊して神事は見れなかったけどね)

正月には土地神様のところに挨拶に行き、お盆には寺に墓参りに行く。

日ごろ神様仏様と対峙するのってこれくらいしかないし、そもそも神とかは信じてない(100歩譲ってお腹痛い時に神様助けてって祈るくらい)。

伊勢神宮へ行くと生まれ変わるとか、全然気分が違うとかいう人の話ももちろん信じてこなかった。

けど、そう感じてしまうきっかけみたいなものがあるんじゃないかと、今日行ってみて思った。

例えば、木々に囲まれた場所や、川近くの気温がいくぶん下がるのも、風が吹けば木の葉や枝がザワザワとなるのも当たり前だ。

ただ、もし今自分がいる場所を「日本という国をつくられた天照大神が祀られている神社」と考えながら参道を歩いたら。

ふと目線を上げた瞬間や、鳥居をくぐった瞬間に吹いた風に意識を持ってかれたら、それを何かの「サイン」として受け取ろうとするのは簡単な気がする。

山登りやバードウォッチングが趣味です、みたいな人ならそんな現象気にも止めないだろけど、都会で暮らしている人ならコロッと「神」の存在を捉えた気になると思う。

 

こんな不謹慎スレスレの会話をしながら参道を歩いてた。

最高気温3℃の今日は、ウルトラライトダウンのロングを着ても寒い。
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参道には樹齢400年を越す大木が点々と生えている

別宮がありすぎて小銭を使い果たし(だって外宮と内宮あわせて10もある)、100円玉の出番が巡ってきてたところで、最後に風日祈宮(かざひのみのにや)を参拝して帰ることにした。

メインの参道から少し離れたところにある宮に参る人はあまりいないようで、しんとした空気のなか、静かに人生によい風が吹くよう祈った。

橋を渡って再び参道に戻ってきた時に、友人が一言。

「なんかスッキリしたね」

たしかにその通りだった。

別に体が軽いとか、世界が澄んで見えるとか、そんなスピリチュアルな話じゃない。

まず伊勢神宮までの道中で考えてた、三代目のコンサートのせいで1人1万円もするホテルに素泊まりしたとか、明日は日曜日だもう休み終わりかとか、そんな小さなモヤモヤがどうでもよくなった。

で、もっと長い目で考えなきゃいけないもの(これからどうしようみたいな)の全貌が顕れた、って感じ。

救いようがないほど漠然としてて、自分でもどう表現したらいいか分からないんだけど、これはきっと健康とか幸せとか人間誰もが望む根本的な願い事を唱えていたからな気がする。

 

玉砂利の鳴る音と参拝者たちの声に囲まれて感じたのは、自分が「大衆」と呼ばれるものの一部だってことだった。

老若男女、日本全国から集まった群衆のひとり。

初めてデモに参加した時にも「大衆」を感じたけど、今日のそれとは似て非なるものだった。

あの時は「安保法案反対」の意思を示すためというより、デモに参加することに目的があったからか、大衆を「見た」という感じだった。

じゃあなんで伊勢神宮では「一部」と感じられたのか。

それは自分がその他大勢と同じように、神に自分の願い(念)を聞いてもらうという目的があってそこにいたからだと思う。


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おかげ横丁は大衆のおかげで大繁盛 

内宮が建てられて2000年、外宮は1500年。

江戸時代には、おかげ参りにやってくる人々をもてなすために伐採を繰り返し、神域の森林は禿山同然になってしまった。

年間600万もの人々を五十鈴川の対岸から内宮へと送り届け、他の宮と同様20年に一度の建て替えられる宇治橋の板は、磨り減って数センチ薄くなっているという。

この2つのことが示すのは、それだけ多くの人が伊勢神宮に来たということと、永い間人々がそこに祈りを捧げ続けた(念を送り続けた)ということだ。

伊勢神宮に蓄積された人々の念を「神」というなら、信じてもいいかもしれない。

そんなことを思った伊勢詣りだった。