さるみブログ。

自意識の墓場。若気の至りと思ってください...

桃の食べごろと映画の見ごろについての考察。

「シャラメ、シャラメ」と慣れないカタカナを繰り返しながら雨の新宿を急ぐ。「君の名前で僕を呼んで」を見るために。

 

核となる種を床に投げ捨て、美味しい果実だけを貪る。または慰める道具にする青年。それを食べようとする年上の男。

メタファーのオンパレードなのはいかにもフランス映画だったが、普遍的なテーマで、まったく時代に媚びない姿勢は素晴らしいし、何よりラストのエリオの泣き顔は本当に美しかった。

けど、17歳と24歳の青年同士のラブストーリーを見るには、25歳の私は中途半端だったように思う。

17歳のエリオとして見るには自分は年取りすぎたし、オリヴァーには感情移入できないし、かといって物語を懐かしいと思うには若すぎた。

桃は熟していた方が好き。好みは分かるが自分の成熟度はわからない。

この映画がしっくりくるのはいつなんだろう。その時わたしは何歳なんだろう。

坂本龍一のBGMを聴きながら、そんなことを考えた。

f:id:srwtri:20180509022758j:image

✂︎—————————— こっからはネタバレ ✂︎———————————-

都市は雑音が多い

前半、北イタリアの夏の光に包まれた二人の青年は本当に綺麗だ。自然の中に二人きり。吐息がかかるほどの距離感がとにかく甘酸っぱい。

エリオの猫のようないたずらっぽさは、子どものそれとは違う。17歳というあの年頃にしか出せない、侵しがたい色気がある。(やたらギリシャの男性像を出していたのは、像に閉じ込められた永遠の若さを表現していたのでは?)

あの仕草にいじらしさ感じるのは、私たちが日本人だからでは?と言った友人にはただただ同意だった。

 

けど、後半から舞台が都市部に移ると、二人の関係が急に世俗的なものに見えてくる。街の人、建物、車、都市は雑音が多い。その雑音の中に馴染むオリヴァーと、そんな彼を虚ろな目で見つめるエリオだけが神聖なものに見えた。

思い返せば、オリヴァーは関係を持った翌朝に何度も「昨晩のことを後悔してないか」と聞いていた。エリオはその度に「別に」と答えるけど、年上の彼は加害者になりたくないだけなのだと薄々気づいていたのかもしれない。

 

 みんな傷つき、傷つけている

けっきょく最後まで二人が思いを言葉として告げることはなかった。

タイトルの「君の名前で僕を呼んで」はオリヴァーのセリフだが、そこにも彼の逃げたい(責任を負いたくない)という心情がこもっているように思う。互いに自分の名前を呼ぶことで、自分に向けられた思いを代弁し合う、そう見ることもできるかもしれない。たしかに恋に酔ったエリオはオリヴァーに言われた通り、自分の名前をたいそう愛おしそうに繰り返していた。

しかし、自分の名前を呼ばせないことでエリオの中の自分の存在をこれ以上大きくしないように自己暗示させていた、とも考えられないだろうか。あくまで思いは己自身に向かっていて、それを自分が与えることも与えられることもないのだと。

ただ、当のエリオも純粋無垢というわけではない。オリヴァーを忘れるために女友達と関係を持ち、にもかかわらず本命と結ばれると「わたしはあなたの彼女よね?」という問いに肩をすくめる。みんな傷つき、傷つけている

オリヴァーと別れたあと、帰宅したエリオに父親が語りかけるシーンがある。長い長い語りのなかで、彼は息子に「その痛みを忘れるな。消してしまうな」と言う。何度も二人の関係は友情だったと繰り返しながらも、それが特別なものだったということも分かっていた。自分はたしかに存在したその思いを否定するような親ではないと息子に言い聞かせる。初めはそっぽを向いて適当に聞いていたエリオも、最後には目を潤ませながら愛溢れる父を見つめていた。

 

シネマカリテ、20:45。満席。
最後列で思ったのは「ガラガラの真夏のレイトショーで観て朝帰りしたい」だった。